もしも今、三千メートル上空から身を投じたならば、落下の数分間、私は何を回想するのだろうか。
自分自身のことだろうか。それとも、かつて傍に居てくれた人たちのことだろうか。
おそらく私は、最後まで自分という存在の軌跡ばかりに焦点を合わせてしまう気がする。
それが人間の性なのか、あるいは私の限界なのか。
いずれにせよ、そうした自己中心的な終わり方を望んではいない。
私の内部には常にもう一人の自分が存在している。
彼(または彼女)は、私の言動を半歩引いた地点から観察し、それによって相手から向けられる感情や求めている言葉を即座に示す。
そしてその存在を意識するたび、恐怖に襲われる。
私の善意や思いやりと呼ばれる行為の多くは、自分の意思ではなくもう一人の自分の打算的な策略によって生み出されているのではないかと。
自分の真意が何処にあるのか、その方角に確信を持つことができない。
さもしい人間だ。
それでも、そのどちらもが私であることに変わりはない。
否定することも、切り離すこともできない。
それでも私は、誠実でありたいと願う。
しかし誠実さとは、誰に対してのものなのか。
私は他者から救われようとしているのだろうか。
それとも、自らの内に棲む”観察者”から解放されようとしているのか。
答えはまだ見えない。
ただ確かなのは、“問い続けるという行為そのものが、僅かに私を人間らしくしている”ということだけだ。